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続 名画を見る眼

最終更新日: 2023 年 12 月 30 日

私にとって、印象派とキュビズムの間の美術は捉えどころのないものであった。もちろん、セザンヌやゴッホやゴーギャンの作品は見ればそれだとだいたいわかるのだが、画家としての個性が強すぎて歴史のなかでの位置づけが曖昧なままだったのだ。しかし、本書の以下の言葉ですべて納得した。

つまり、印象派の画家たちは、あまりにも徹底して写実主義を求めた結果、絵画による写実表現の限界を明らさまにしてしまったと言ってよい。光の表現と空間設定と、その両者を同時に完全に実現することができないといういわば絵画本来の宿命のようなものが、印象派の大胆な実験により明らかとなったのである。

とすれば、印象派に続く世代の画家たちが、絵画とは何かということを改めて考え直すようになったのも当然のことと言えるだろう。そして、その結論は、ゴーガンの弟子であったモーリス・ドニの次ぎの言葉に要約することができる。

「絵画とは、戦場の馬とか、裸婦とか、その他何らかの対象である前に、本質的に、ある一定の秩序で集められた色彩によって覆われた平坦な面である」
こうした流れのなかにポスト印象主義やフォーヴィズムがある。しかし、そんな時代においてもアンリ・ルソーのような素朴派の人間が突如として現れたりするのが歴史のおもしろいところである。「ドゥアニエ(税関吏)・ルソー」として知られる彼は、当初はその通称のとおり収税史(厳密には「収税史」であって「税関史」ではないらしい)として働きながら絵を描いていた。現在知られている最も早い作品が 1880 年のものであるから、 30 代も半ばを過ぎてから本格的に絵に励むようになったということらしい。彼の代表作は『眠るジプシー女』だ。あのジャン・コクトーはこう評している。
おそらく、このライオンと、この河とは、眠る女の夢に出て来るものであろう。どんな細部も決して忘れたことのないこの画家が、眠る者の足の周囲の砂の上にひとつの足跡も描かなかったのは、おそらく意味のないことではない。ジプシーはここへやって来たのではない。彼女はそこに在るのだ。いや彼女はそこにいるのでもない。彼女は人間のいるどんな場所にもいない。彼女は詩の秘密の塊であり、信仰の行為であり、愛の証しなのである。
ルソー自身も『夢』でジャングルの真ん中に長椅子を置いた理由を「それはこの女が長椅子の上で眠っていて、密林に運ばれた夢を見ているところだから」と答えたという。夢を見ている女がその夢のなかにいるというこの表現は、 20 世紀の思想家たちがその後に繰り出す議論を暗示しているようでもある。
  • Henri Rousseau The Sleeping Gypsy, 1897
    Henri Rousseau The Sleeping Gypsy, 1897
  • Henri Rousseau The Dream, 1910
    Henri Rousseau The Dream, 1910