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超越と実存

最終更新日: 2023 年 12 月 31 日

副題は『「無常」をめぐる仏教史』。タイトルから勝手に西洋哲学との比較が語られているのかと思っていたが、全然違った。登場するのはデカルトくらいである。インド・中国・日本の仏教史とともに釈尊から道元までの哲学をたどるストーリーだ。題名のとおり「超越と実存」がテーマなので通常の思想史からするとかなり偏った内容であるとは思うが、仏教と実存主義との関係が気になっていた自分にとっては、大変読み応えがあった。著者も述べている。それまでもなんとなくあったが、「構造」だの「脱構築」だのと言い出したあたり(『現代思想入門』などで出てくる議論)から現代哲学は「妙に仏教っぽくなってきたのである」。著者の主張は至ってシンプルである。

すなわち、私が思想には仏教と仏教以外しかないと言う意味は、「実存」を「超越」との関係で考えるのか(仏教以外)、「超越」抜きで考えるのか(仏教)どちらかだ、ということである。

その場合、「『超越』抜き」という言い方に注意してほしい。私は「超越は無い」と言っているのではない。「超越」は定義上「実存」の経験外であるから、人間の認識能力においては在るとも無いとも言えない。しかし、「在る」という断定には徹頭徹尾反対する、ということである。

「超越」抜きで考える思想全般を仏教と呼んでしまうのはかなりの極言であるようにも思われるが、議論の構造としては非常にわかりやすい。彼はこの「超越」抜きで考えるという「無常」にこそ、「仏教の空前絶後の思想的ユニークさ」があると述べている。その観点からすると「唯識」「仏性」「浄土」などの概念は仏教以外というわけである。これらが仏教の革新的な考え方を見えなくしているのだという。

結論としては、親鸞と道元が「実存を根拠づけるものとしての超越的理念を排除しながら、実存を受容する方法を提案した」。特に前者の態度はもはや信仰者のそれではない。『歎異抄』にもこうある。

念仏は、まことに浄土にむまるゝたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、惣じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。
つまり、念仏往生には自分も確信を持てないということだ。彼にとっては阿弥陀如来ですら単なる手段にすぎず、「信じる」主体も「信じられる」対象もない。無意味な念仏によって、無常を自覚的に受容するというのが「ナムアミダブツ」の本質である。『歎異抄』を読んだときにも感動したが、その理解がより一層深まった。