あらかじめ『祭祀からロマンスへ』『金枝篇』を読んでから臨んだが、この詩を理解するためにはまだまだ教養が足りていないようだった。訳注にもあったが、他にもダンテ、ラフォルグ、マーヴェルなどの作品の知識がなければ到底太刀打ちできないだろう。私の場合、かろうじて理解できたように思われる引喩は、先ほどの 2 冊、シェイクスピア、仏陀、シュールレアリズム、意識の流れくらいだろうか。ただ、モダニズムの流れをくんだ詩の読み方はなんとなくわかったような気がする。
ひとつは『なぜ脳はアートがわかるのか』で述べられていたような抽象画と、同じような楽しみ方ができるのではないかという点だ。エリオットの詩も広義では現代アートの一部なのだから、当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、作品そのものから具体性が取り除かれたのであれば、私たちがそこからなにか識別可能なものを引き出そうとしても、それはかなわない。鑑賞者が自らの想像力を駆使して参加することによってはじめて、そのアートは作品となる。
もうひとつはそれとまったく対極にあることかもしれないけれども、現代の詩を読むのは数式を解くのに近いのではないかと強く思った。たとえば物理学の教授に教科書から拾った数式を安易に披露すると、必ず「それは自明ですか?」と聞かれる。つまり、それは証明するまでもない明らかなものなのかということだ。大抵の場合そうではなくて、元となっている理論や公理というものがある。これを証明できなければ、理解できていないに等しい。今回、本編と原注と訳注とを一行一行行ったり来たりしながら詩を読み進めたが、その作業が数式の導出に極めて似ているということが感覚でわかった。