『シェイクスピア』の著者である河合祥一郎が翻訳したハムレット。本当は彼と『サミュエル・ベケット』の高橋康也が編注をつけた大修館シェイクスピア双書版を読みたかったのだが、すぐに手に入らなさそうだったのでこちらにした。野村萬斎がすべてのセリフを 1 行 1 行声に出して読み上げ、チェックした台本だそうだ。本書での「To be, or not to be」の訳は、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」。
『シェイクスピア』において河合は、シェイクスピア悲劇の本質はギリシア悲劇のそれと同じく、ヒューブリス(神々に対する思いあがり、傲慢)にあると述べている。たとえば、「雀一羽落ちるのにも神の摂理がある」から続く最終幕の言葉には、神に代わって復讐をしようとしたハムレットが自らをヒューブリスから解放した意味合いがあるという。この考えは新約聖書「ロマ人への書」第 12 章第 19 節にある以下のような教えに依っている。
自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して「主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これを報いん」とあり。河合も述べているが、『ハムレット』は単なる敵討ちではなく、人間の身でありながら復讐をもくろむ矛盾に悩み続けた彼の姿を描いているのだ。また一方で『新訳 ハムレット』の訳注には、下記のコメントもある。
ヘラクレスになることを目指していたハムレットであったが、最終幕の時点では、そんなに頑張ってみたところで自然の摂理は変えられないと気づくようになっている。実際、第 1 幕の時点でハムレットはヘラクレスの 12 の功業の最初に出てくる、ネメアの獅子を想起していて、以後何度かそのような場面が出てくる。報復の多いギリシア神話に「復讐するは我にあり」というような思想はないと思われるが、キリスト教的な神とギリシア神話の英雄(厳密にはヘラクレスは死ぬまでは半神)とが同時に重ね合わされているのは、なかなか味わい深い。