言わずと知れたベケットの戯曲である。訳者のひとりはベケット研究の第一人者で『サミュエル・ベケット』の作者でもある高橋康也だ。残念ながらこの作品を解説するだけの教養もフランス語の語学力も自分は持ち合わせていないので、高橋の言葉を借りながら解釈のひとつを書いてみる。まず、エストラゴンの第一声「どうにもならん」というセリフに、高橋は以下のような注釈をつけている。
原文(F ‘Rien à faire’, E ‘Nothing to be done’)の ‘faire’ ’do’ は、<真似る> <演ずる> という演劇的意味をも持つ語でもある(第二幕「木のまねをしよう(faire l’arbre, do the tree)」 151 頁参照)。とすれば、この芝居は、脱げない靴への苛立ちで始まると同時に、「演ずべきこと〔主題・物語〕は何もない」という宣言、演劇の死または不可能性の告白をもって始まったことになる。この宣言にもあるように、本作品はときに支離滅裂で、非論理的な内容に溢れている。全体を流れるこのトーンは「我思う、故に我在り(Je pense, donc je suis)」というデカルトの西洋的理性を批判していると高橋は指摘しているが、たしかにそうだと思う。だが高橋はこうも言っている(先出の『サミュエル・ベケット』)。
しかしぼくたちは、このような否定的ないないづくしがその極点において肯定的な豊饒に逆転することを見失ってはならない。そこに『ゴドーを待ちながら』の奇跡的としか言いようのない勝利があるのだから。この演劇的「空無」の体験の極地は「何も起こらない」が「無が起こる」に変じるところにあると高橋は述べているが、ここに私はカミュやサルトルとの関連性を見出した。評論家マルティン・エスリンによると、カミュらは形式としては伝統的な演劇を踏襲していたのに対して、ベケットらはその形式すらも破壊してしまったということらしい(『不条理の演劇』)。ここまで来て、やっとこの作品のすごさがわかってきたような気がする。つまり、 実存主義に見られるような不合理性・無意味さへの言及を、形式の上でも一致させようとした試みが『ゴドーを待ちながら』のような不条理演劇だったのだ。