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初詣の社会史

最終更新日: 2024 年 01 月 17 日

鉄道が変えた社寺参詣』での議論をベースとして、娯楽とナショナリズムにまで踏み込んだ内容となっていた。僕はナショナリズムと聞くとすぐに世界大戦を連想してしまうのだが、その前段階で大衆がそれに目覚めてゆく様子が手に取るように伝わってきた。従来、官が「上から」植え付けたとされていた初詣は、実は「下→上→下」の相互作用によって成立したのだということを明らかにしている。

一番印象に残ったのはやはりナショナリズム浸透のダイナミズムだ。たとえば聖地参拝をめぐる以下の論考などは鳥肌が立った。

そもそも、 " 体験すれば「気分」が味わえる " と説く「体験」至上主義言説の暗黙の前提となっているのは、 " まともな日本人であれば " という条件である。裏返しに言えば、この言説をつきつめて行きつく先は " この「気分」がわからない者はまともな日本人(あるいは人間)ではない " という、理屈抜きの排除なのである。

こうした空気感は今でもいたるところで見受けられること、さらにそれがナショナリズムにつながりうるということ、これらを妙に実感してこわくなってしまった。社会史を学ぶ意味というのはこういうところにあるのだろう。